稲園山 七寺
戦火を免れた華麗な平安仏並びに唐櫃入り一切経に会える寺。(共に国指定重要文化財) 11月酉の日には大須酉の市も開催される。
名古屋21大師霊場第二番
東海三十六不動尊霊場第九番
御本尊 | 聖観音菩薩・大勢至菩薩 |
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創建 | 735年(天平七年) |
開基 | 行基 |
アクセス
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由来
漢数字の七に寺と書いて「ななつでら」と読みます。
大変珍しい名前ですが本来は、稲園山正覚院長福寺が本当の名前なのですが、開創当初より七堂伽藍があり、七つのお堂のある寺、七つ寺と呼ばれるようになって、現在では正式名称として使っております。
開創は天平七年、735年に行基によって興された寺と伝えられております。もともとはここ大須の地ではなく、ここから10キロほど西の中島郡萱津の荘、今のあま市甚目寺町あたりに正覚院として建てられました。その後、延暦六年、787年に河内権守紀是広により七堂伽藍と十二の僧坊が建立され、それ以来、七つ寺と呼ばれるようになりました。
しかし川の中洲にあったと思われ、是広寄進の堂塔も多くの水害や兵火により荒廃しました。
その後、平安の末期の仁安二年、1167年に勝幡城主、尾張権守大中臣朝臣安長によって元の位置より3キロほど西、今の稲沢市七ッ寺町に寺域を移し、七堂伽藍と十二の僧坊を再建。寺名も長福寺と改めました。このころが一番大きな寺として栄えていました。今ある本尊様。観音菩薩さまと勢至菩薩さまもこの当時に造られたものです。また「一切経」の書写の一大事業も行われました。
御本尊:勢至菩薩
安長寄進の堂塔も建武の兵乱(1330年中頃)により大半を焼失。その後260年間は住職のいない荒廃した時代が続きました。天正十九年、1591年になり、豊臣秀吉公にみいだされ、清州の豪族、鬼頭孫左衛門吉久に命じ寺域を清洲に移し、本堂を再建。弥陀三尊と持国天・多聞天の5体の仏像を安置。性海寺良圓を迎え中興開山します。
清州には20年あまり居ただけで、その後、慶長十六年、1611年、徳川家康公の命によりこの大須の地に移って参ります。いわゆる清州越しという一大事業です。八千坪を超える寺領を頂戴し、清洲で造った本堂を解体移築するのをはじめ、諸堂を再建。元禄十三年、1700年には徳川光友公の寄進による三重塔ができ、七堂伽藍の全てが整い、多くの人で賑わう名所となっていました。享保十五年、1730年からは尾張徳川家の祈願所となりました。江戸時代には尾張名所図絵にも尾張随一の景勝地として大きく採り上げられていて、春は桜、秋は紅葉といった風光明媚なところ、広い境内には三つの芝居小屋が常設され、池のほとりには茶店が立ち並び、大勢の参拝客でにぎわいのあるお寺でした。
その後、広かった境内地ですが徐々に削られていきます。最初に大きく削られたのが明治の終り頃、ちょうど東側に博覧会を行うために新しく作った鶴舞公園ができ、この正面の通り岩井通り、今は大須通りと名前を変えておりますが、この通りが境内地の真ん中を通り、約半分にされてしまいます。大正になると、芝居小屋があったところが道路で区切らておりましたので、この道路によって区画整理をされてしまい、さらに三分の一に削られてしまいました。それでもまだ七堂伽藍のある大きなお寺でしたが、昭和になりますと、太平洋戦争があり、昭和二十年三月十九日の空襲により全山火の海となり、木造の諸堂は全て焼失。戦前の建物で残るのは経蔵。一切経のお蔵のみです。 露佛の大日如来も真っ赤に焼け、ばらばらになりましたが、戦後とりあえず組み直し、ブリキで継接ぎの痛々しいお姿になっております。本尊さまも、観音さまと勢至さまは本堂に火がついてから二人で何とか外に運び出すことが出来ましたが、中尊の阿弥陀さまは倍の大きさがあり、とても二人では持ち出せなく、本堂と共に焼けてしまいました。今では残された観音さまと勢至さまの2体を並べてお祀りをしております。