東光山 神宮寺
織田信長も平伏した奈良時代のご本尊。堂内には156枚の絵天井と鎌倉時代の鎮守毘沙門天。境内にはぼけ封じの観音様や樹齢400年以上の梛の木などがある。
東海白寿三十三観音霊場
三重梅花百観音霊場
勢州七福神めぐり毘沙門天札所
御本尊 | 藥師瑠璃光如来 |
---|---|
創建 | 天平二年(西暦730年) |
開基 | 北畠具教・森本(多賀)飛騨守正能 |
御詠歌 | み仏の 誓いも嬉し 法の山 瑠璃のうてなに 響く松風 |
ご利益Profit | 身体健全、病気平癒、商売繁盛、ぼけ封じ・寝たきり封じ |
アクセス
御朱印
頂きたい御朱印の画像を押して、決済方法を選択し御朱印料をお納め下さい。
由来
東光山神宮寺は奈良時代 天平2年の春、聖武天皇の后 光明皇后の発願を僧 行基に託して三重県嬉野町の山中に利勝山瑠璃光殿を建立、慈覚大師の一刀三礼彫刻の三体の薬師如来像が本尊として安置されていました。室町時代に入って、多賀飛騨守が現在の嬉野森本町に真言密教の醫王山神宮寺を建立し、三体の内の一体の薬師如来像を本尊として迎え菩提寺としました。戦国時代の永禄12年(1569)8月27日に織田信長は伊勢地方を攻略、その策のひとつとして神宮寺を焼き討ちしようと試みたところが、信長の両眼が突然見えなくなり、公は深く懺悔して、篤く本尊の薬師瑠璃光如来を礼拝、供養したことで両眼は快復し、戦乱の兵火から免れた不思議な力を持った霊像と今に伝えられています。天正の勢乱(本能寺の変)の後、伊勢国司北畠家一門の滅亡と共に神宮寺も廃絶しかけていましたが江戸時代の天和3年(1683)4月に浄眼寺(松阪市大阿坂町)の十二世 實仙耕心大和尚を迎えて山号を「東光山」と改め、曹洞宗の寺院として再興されました。天明8年(1788)、七世 慧燈和尚の時、紀伊徳川家より寺領を許され、現在の森本城址に移築されました。
現在の本堂は大正6年(1917)に再建され、本堂大間の天井は156枚の欅の板に直接絵が描かれた絵天井の造りになっています。本堂再建の際、ご先祖様の供養の為にと沢山の方々から寄付が寄せられました。
絵の一枚一枚には当時の寄付者の名前とご先祖様の戒名が記されています。
本堂内向って左側に祀られる鎮守の毘沙門天は鎌倉時代 定朝作。左手は宝灯を持たず、手を腰に当てた珍しい御姿です。勢州七福神めぐりの札所となっています。
境内に高さ約4メートルの観音様が祀られています。この観音様は『白寿観世音菩薩』と言い、ぼけ封じの観音様です。毎年10月中旬の土曜日に「ぼけ封じ祈願祈祷大法要」が行われます。
神宮寺 境内
神宮寺 梛
神宮寺 絵天井
神宮寺 毘沙門天
神宮寺 ぼけ封じ祈祷法要